福井豪(フクイ ゴウ)
1984年 岡山県倉敷市生まれ
2001年 高校中退→大検(現高卒認定試験)
2007年 立命館大学卒業
2009年 発達障害の診断(精神保健福祉手帳3級取得)
2013年 著書「生きづらさを超えて」を出版
2015年 精神保健福祉士 国家資格取得
2021年 フリーの精神保健福祉士として独立
父の病気
私の家は多くの問題を抱えており、父は私が生まれる前から重度の双極性障害で入退院を繰り返していました。母は結婚時に父の入院歴をしらなかったそうです。

双極性障害とは気分が高まったり落ち込んだり、躁状態とうつ状態を繰り返す脳の病気だよ。 激しい躁状態とうつ状態のある双極I型と、軽い躁的な状態(軽躁状態)とうつ状態のある双極Ⅱ型があるんだ。双極性障害について詳しくはこちら
父がよく入院して働けない時期もあるため貧乏で、家族サービスもコミュニケーションも笑顔も少ない家庭でした。
学校から家に帰ると不機嫌な父が当たり前にいる。これは子どもの私にとっては「とても嫌」なことでした。
姉の死
また私が大学2年の時に二つ上の姉は22歳で自ら命を経ちました。姉は性格や気質が私にとても似ていました。
ずっとしんどかったのでしょう。大人になって振り返ると私たちの家庭環境は恵まれていませんでした。このことは私の死生観に大きな影響を及ぼしました。
人見知りの強い私
結果から言うと私も非常に生きづらい人生でした。幼いころから超がつくほどの人見知りで、知らない人が家に来ると部屋から一歩も出られませんでした。
中学くらいになると対人緊張が異常に強く、授業中も黒板が正視できないほどでした。学校に行きづらい日々が始まりました。
不登校と高校中退
中学は時々休みながらもなんとか卒業しました。しかし強いストレスは明確に身体に出ました。
呼吸が苦しく、姿勢が異常に悪くなり、体中に大量の発疹も出てしまいました。明確なサインが中学時代にすでに出ていました。
一応高校は地元の公立普通科に進学しましたが本当にしんどかったです。人生で一番しんどかったです。
中学高校の教室は私のようなタイプには地獄のような空間でした。長時間逃げ場のない「中学高校のクラス制度」は不安緊張が強く、私にとっては極めて厳しい環境でした。
そして高校1年の冬から休みがちになり、2年に進級してすぐに不登校になりました。
不登校期間の詳細をここで語るには長くなりすぎるので割愛します。不登校については様々投稿していきたいと思います。
とにかく「このままだとまじで死ぬ」そう直感しました。
高校2年の夏に自主退学を決意し、両親と担任を説得し9月に自主退学しました。
「生き延びた…」
大検と大学受験
その後は精神科通院をしながら療養し、アルバイトをしながら大検「現高認」を取得しました。大学受験は書店で参考書と問題集を買い、それをひたすら自室で読んで解いて乗り越えました。
学校のない独学での受験は、継続的な人間関係がないため精神的に楽でした。勉強以外の時間は昼寝、運動、TV、アニメ、漫画、ゲームを好きに楽しみました。結果的に受験した大学は全て合格できました。
大学生活
進学した立命館大学は県外のマンモス大だったため「クラス制度」から逃げることができました。学生数が多いため、合わない人間関係はリセットしてもどんどん新しい人間関係を構築できました。
そのためコミュ障のままでも親友と呼べる友人も数人できました。周囲の学生の精神年齢も上がっていて過ごしやすかったです。
就活と大学卒業
大学新卒の就職活動はそこそこうまくいきました。
大学新卒の就活は「個人戦」「面接官とは明日会わないから気楽」「ビジネスライクで深く継続的な人間関係が必要ない」「高校中退がデメリットにならない」「面接時間が10分程度で短く心身共に楽」「無料で何社でも受けられる」、「何社落ちても恥ずかしくない」etc…で日常生活よりは楽でした。
結果として地方銀行と地元の信金の内定を大学4年の4月に頂きました。それから大学卒業までの約1年間は怠惰な日々を過ごしました。とはいえ大学生活は、4年で卒業できたと考えれば満足のいくものでした。
社会に出て~挫折再び~
しかし就活をして新卒で入った地方銀行でも対人関係でうまくいかず挫折しました。対人緊張が強い中接客を伴う、フルタイムの銀行員は無茶でした。
支店配属されて3か月後にはダウンしてしまい、長期の休職を余儀なくされました。
発達障害の診断と障害者雇用
24歳でまさかの発達障害と診断され精神保健福祉手帳も取得しました。「発達障害ってなに?」って感じでしたが「生きづらい」ことの理由が分かり楽になりました。なにより私自身「納得」をしました。
診断書的には当時の広汎性発達障害(現在の自閉症スペクトラム)でした。

発達障害とは、広汎性発達障害(こうはんせいはったつしょうがい)、学習障害、注意欠陥多動性障害など、脳機能の発達に関係する障害だよ。 発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどがとても苦手だけど、周りから見てアンバランスな様子が理解されにくい ことが「生きづらさ」につながっているよ。発達障害について詳しくはこちら
その後最初の相談先で大人の発達障害の当事者会の運営を行い、「生きづらい仲間たち」とたくさん出会いました。「発達あるあるネタ」を語るのは楽しかったな。
その後リハビリも兼ねて障害者就労で4年間働きました。本当にみんな優しかった。
そして周囲の理解もありながらエネルギーが溜まっていき、区切りとなる30歳を手前に自伝本「生きづらさを超えて」を出版しました。
職場の皆さん応援してくれました。本当に感謝です。
この生きづらさの多い人生で、私は他人に頼れず苦労しました。だからこそ一人で悩まず相談すること、誰かと一緒に考えることが大事だと思いました。
精神保健福祉士の取得と自殺予防の仕事
「苦しかったあの頃に側に居て欲しかった誰か」になれるようにと30歳を迎え精神保健福祉士の国家資格を取得しました。
それまでにも精神保健福祉士の方には何度もお世話になり、自然と「自分もそうなりたい」と考えていました。
資格取得後は自ら命を絶った姉のような悲劇を減らしたいと、そして死にたいと何度もつぶやいた自分のためにも、と自殺予防の仕事を数年従事しました。
行政での専門職としての難しい仕事でしたが、やりがいも感じました。
不登校支援の仕事
その次は自分も経験した不登校支援のNPOで3年働きました。私自身がそうであったこともあり不登校の生徒とはやありシンパシーを感じます。
家庭訪問をして過ごす中で復学できる生徒や、アルバイト学校以外で活躍する生徒、配信に生きる希望を見出した生徒もいます。思い返すたびに感極まってしまうこともしばしば。
彼らとの出会いは「生きづらい人生」において最大級の幸せでした。
そして自分がなんとかしてあげないとと焦っていたのに、それと同じように、いやそれ以上に私が元気をもらっていることに気づきました。
ありがとう。
現在
現在はフリーランスで同じ形で不登校生徒への訪問支援を行っています。
生きづらい「当事者」でもあり、「支援者」でもある私。それは強みだと思います。
「生きづらさを超えて」という本を書きましたがあれは嘘です。正確には「生きづらさを越えかけて」が正しいタイトルだと思います。
まだ生きづらい人生ですが、多く乗り越えてはきました。
さて今後生きづらい仲間たちとどうしたら生きやすく生きられるのか、これからも挑戦は続きます。